こっちのけんとさんは、双極性障害を患い、2024年末に活動休止を発表し、しばらくの間休養していました。
しかし、2025年3月9日には「やっつけました。今後もお楽しみに」と自身のSNSで復帰を報告。
ファンからは「おかえり!」「待ってたよ」とあたたかい声が寄せられました。
そんなこっちのけんとさんが、自分らしい表現を見つけていく過程で大きな転機となったのが大学時代。
今回は、彼の出身大学や学生生活について、公式メディアの情報をもとに詳しくご紹介します。
こっちのけんとが駒澤大学に進学した理由は“父のひとこと”

こっちのけんとさんが進学したのは、東京都世田谷区にある私立大学・駒澤大学。
学部名は公表されていませんが、2019年に卒業したことが、大学公式サイトで明記されています。
本学卒業生・アーティストの こっちのけんと さん(2019年卒)がNHK総合「第75回NHK紅白歌合戦」に出場します。
出典:駒澤大学
ちなみに、2024年のイベント出演時には、母校・駒澤大学を訪れている様子もSNSで確認されています。
紅白出場後ということもあり、学生たちの間でも話題を呼んだようです。
母校を大切にする姿勢からも、こっちのけんとさんの誠実さと地に足のついた魅力が感じられますね。
実は、もともと地元・大阪の大学を受験するつもりだったというこっちのけんとさん。
しかし、受験直前になって父親から「けんとは東京や」と一言告げられ、急きょ進学先を東京に変更することに。
地元が大阪のため大阪の大学を受験しようとしたが「受験間近になってうちの父ちゃんが“けんとは東京や”て言われて、急に“配属先”が決まって」と振り返った。
出典:スポニチ
この“進路の配属通知”のようなエピソードは本人も印象深く覚えているようで、「急に“配属先”が決まった(笑)」とユーモラスに語っています。
父親はコンサルタントとして活躍しており、仕事・学業・コミュニケーション能力すべてに優れた“スーパーマン”のような存在だそうです。
その父からの期待やプレッシャーもあり、兄が俳優としてデビューしていたこともあってか、「いったんは会社員をして親を安心させようと思った」と語っていました。
「父ちゃんがコンサルタントで」と職業も告白。「だからそういうのもあって父からのプレッシャーというか試練というか。自分も“コンサルになろう”と思って目指した」と明かした。
出典:スポニチ
なぜ父親が東京を勧めたのか、詳細は語られていませんが、その一言がなければ、こっちのけんとさんがアカペラや音楽に出会い、現在の活動へとつながることはなかったのかもしれません。
今思えば、その“配属”が彼の人生の冒険の始まりだった――そんな気がしてきますね。
全国大会2連覇!大学アカペラサークルでの活躍

大学では、アカペラサークル「鳴声刺心(めいせいししん)」に所属し、本格的に音楽活動をスタートしたこっちのけんとさん。
こっちのけんと さんは、学生時代にアカペラサークル鳴声刺心に所属していました。
出典:駒澤大学
グループ名は「ケミカルテット」。
ディズニーソングを中心にアカペラアレンジを重ね、4年間にわたって活動を続けました。
なかでも大きな成果を上げたのが、全国アマチュアアカペラ大会「A cappella Spirits」への出場です。
当時所属していたアカペラグループ「ケミカルテット」では4年間、ディズニーソングのアカペラカバーで鍛え上げ、出場したアマチュアアカペラ全国大会「A cappella Spirits(アカペラスプリッツ)」で2年連続優勝(2017年、2018年)します。
出典:THE MOMENT
この大会で、こっちのけんとさん率いる「ケミカルテット」は2017年・2018年と2年連続で優勝。
その実力は高く評価され、音楽関係者の間でも話題となりました。
メインボーカルとして歌っていた楽曲は、東京ディズニーシーの人気アトラクション「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」で流れる「コンパス・オブ・ユア・ハート」。
“人生は冒険だ。自分の心の指針に従って自由に進め”というこの曲のテーマが、当時のこっちのけんとさんを大きく勇気づけていたといいます。
この曲に助けられながら大会で歌っていましたね
出典:THE MOMENT
この経験を通して、「菅田将暉の弟」という肩書に頼らず、自分の名前で評価されたと実感できたそうです。
そして2019年には、NHK紅白歌合戦の特別企画「天気の子 紅白スペシャル」にて、RADWIMPSのバックコーラスとして出演。
ステージに立ったことで、さらに“歌を仕事にしたい”という意欲が高まったと語っています。
このアカペラとの出会いと全国優勝の経験が、後のアーティスト活動へと続く、こっちのけんとさんの「表現者としての原点」になったことは間違いありません。
誰かの“弟”ではなく、“自分の名前”で立った舞台。
初めて自分の力でつかんだ結果に、きっと大きな達成感とともに、自己肯定感もぐっと高まったでしょうね。
ちなみに、2024年2月に結婚した妻ともこのアカペラサークルで出会ったとのこと。
大学時代には、音楽とも出会い、人生のパートナーとも出会ったなんて――
まさに、かけがえのない時間だったのだと思います。
衆議院議員の秘書経験と就職への道

こっちのけんとさんは、大学1年のときに衆議院議員の秘書を務めた経験もあります。
大学1年生の時には衆議院議員の秘書もやっていたんですよ。
出典:NHK
上京1年目、ぎゅうぎゅう詰めの田園都市線に乗って永田町まで通う日々は、まさに社会勉強そのもの。
本人も「エスカレーター長すぎ!」と当時の記憶をユーモラスに語っています。
秘書の仕事は楽しかったし勉強になったこともあったけど、今にいかされているかというと、面白い話ができるようになっただけかもしれません…。
出典:NHK
そんな多才な一面をのぞかせつつも、大学卒業後すぐに音楽の道へ進むわけではありませんでした。
あんまりアカペラでプロのシンガーになるって道が整備されていなくて。ゴスペラーズさんくらい。あと、リトグリ(Little Glee Monster)とかいらっしゃるけど、まあ難しいというのもあって、一旦就職しようかなと
出典:スポニチ
そう語るように、現実的な選択肢として就職の道を選んだこっちのけんとさん。
しかし、就活では思うように結果が出ず、最初の頃はかなり苦戦したといいます。
いろいろ考えすぎて「就活生」を演じていたことで、個性が伝わらなかったと振り返っています。
どんどん自分の個性を消して、自分を「就活生」にしすぎてしまったために、面接している側も「この人はどんな人だろう」というのが分からなかったんだと思います。
出典:NHK
転機となったのは、「もう落ちてもいいや」と開き直って臨んだ面接。
本音で語ったことで相手の心に響き、内定を得ることができたといいます。
そして大学卒業後は、影響を受けていた父と同じく、コンサルティング会社へ就職。
ところが、まじめすぎる性格ゆえにがむしゃらに働きすぎ、ついには体調を崩してしまいます。
診断は抑うつ状態。
休職を経て、1年ほどで退職することになりました。
ただし、退職したからといってすぐに音楽で生きていく決心がついたわけではなかったようです。
曲作りをする中で、少しずつ仕事として「続けていこう」という気持ちが芽生えたといいます。
『はいよろこんで』の制作中の後半ぐらいからだと思います。
出典:NHK
音楽が“好き”で始めたことから、“仕事”として向き合うものへと変わった瞬間。
そこには、自分らしく生きる方法を模索し続けた、こっちのけんとさんの姿がありました。
好きなことに全力で向き合えた大学時代は、人生で初めて“自分の輝き”を実感できた時間でした。
だからこそ、苦しい社会人経験を経た今、音楽を“仕事”として届けられていることが、あの頃の自分を形にしているようにも感じますね。
まとめ
こっちのけんとさんが進学したのは、駒澤大学。
それは、父親の進言から決まった上京でした。
大学時代はアカペラサークル「鳴声刺心」に所属し、「ケミカルテット」として全国大会2連覇を達成。
さらには衆議院議員の秘書として活動するなど、音楽だけにとどまらない多彩な経験を重ねていました。
その一方で、就職活動に悩み、社会に出てからは抑うつを抱えるほど頑張りすぎてしまった時期も。
それでも、大学時代に夢中になった“歌”という表現に再び向き合い、やがて音楽を「仕事」として届けるまでに成長しました。
大学という自由な時間の中で培った経験や自分らしさへの気づきが、遠回りに見えた道のりを経て、今のこっちのけんとさんの土台になっているのかもしれません。
これからも、復帰を果たしたこっちのけんとさんの歩みを見守りながら、応援していきたいですね。
それでは、ありがとうございました!
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